朝、7時半に畑に出発。
今日の畑作業予定は
たけのこ芋(京芋)の収穫だ。
まずやることは畑の見回り。
第2畑の野菜たちは本当に順調に育っている。
手前はブロッコリー、その右はダイコン、さらにその右の畝はキャベツ、そして白菜が二畝、ゴボウも元気だ。チンゲンサイ、コマツナ、ワサビ菜の混植の畝もいい。
タマネギの苗は植え時の20センチから30センチの大きさになってきた。
明日は玉ねぎの定植をしよう。
たけのこ芋(京芋)を植えている、第1畑に向かった。
そこで見たのは、食べごろの柿が5個を残して、食べられていた、残念。
10月28日の画像がこれ。
まだ、少々固いかなと収穫しなかったのが・・・残念な結果に。
落ち込んではいられない。
たけのこ芋(京芋)の収穫作業に取り掛かった。
例年一度に収穫して伏せこみをするのだが、あまり大きな穴を掘るのがしんどいので2回に分けることにした。
今年のたけのこ芋(京芋)大きさは昨年の倍ほどある。
理由はたぶんそれだろうと思いつくものがある。
今年は畝間に台所で出た、生ごみを置き、約1週間後に畝間の土を混ぜながら株元に土寄せしたからだろう。
深さ約70㎝の穴にたけのこ芋(京芋)を根を上にして立てた。
ネットでたけのこ芋(京芋)の伏せ込みのやり方を検索しても、詳細は分からないのが多かった。土を盛るとか、穴を掘って周りを藁で覆うとか、土をかぶせるとか、何が本物なのか判断がつかない。
数年前からネットから得た知識に自己流を加えて、することにした。
それが意外にもうまくできたので、毎年それを繰り返している。
茎の緑の部分が芋になる不思議に感動する。
今年も藁が無いので、穴の周りと下を枯草で覆い、たけのこ芋(京芋)を根っこを上にして立てた。
そして今年初めての試みをした、
新聞紙をその根っこの上にくしゃくしゃにして根っこを覆った。
なぜかというと、暖かくするといいのではないかと思ったからだ。
雨水が入り込まないように、黒マルチを2枚重ねで穴を覆った。
その黒マルチの裾にレンガを乗せ風で飛ばされないようにした。
約2週間伏せ込みをする予定だ。
たけのこ芋(京芋)の子芋も美味しいので、ひげ根を取り、コンテナの半分以上収穫した。
たけのこ芋(京芋)を収穫した後にすぐに苦土石灰を蒔いた。
1週間後には耕して次の作物が植えられるようにしたい。
たけのこ芋(京芋)を収穫した後の作業は耕し。
オクラとししとう、ピーマンを植えていた畝を片付けた。
除草後苦土石灰を蒔いた。
全部の畝を鍬で耕して、苦土石灰と土を混ぜ合わせる、つもりだったが
半分ほど終わった時点で、力尽きた。
野菜を収穫して、帰ることにした。
京ミズナを地際から鎌でカットして収穫。
カットしたところからまた新鮮な京ミズナが再生する。
ワサビ菜の葉っぱを欠き取り収穫。
このワサビ菜もその近くから新たな芽が出てくる。
穴開きマルチの一つの穴に数粒蒔いたチンゲンサイの種が発芽した。
大きいのを間引きながら収穫して食べるのが私流です。
売るものではないのでこれが丁度いい。
コマツナも大きくなりすぎていると、相方に文句を言われながらも、チンゲンサイ同様大きいのから間引き収穫した。
ハクサイも収穫。
今年はハクサイは3畝定植した。
巻きは小さいがどんどん収穫して食べないと、また、とう立ちさせてしまう。
よそ様が収穫していない時期に収穫して食べるのは何かしら気分がよい。
他人と比較したら幸せになれないと聞くがたまにはいいだろう。
ダイコンも収穫。
食べごろの大きさだ。
ダイコンのそのものも美味しいがダイコンの葉っぱがいい。
ダイコンの葉っぱを見ると、いつも思い出すことがある。
沖縄の名護に住んでいた頃、貧乏の部類に入る我が家の私の弁当箱のおかずはダイコンの葉っぱの油いためが多かった。
その葉っぱにいつも足がいくつもある青虫が入っていた。
私はギョッとしながらも、青虫を箸で弁当箱の端に移動し、何くわの顔で弁当を平らげた。
今、亡くなった両親に感謝、感謝だ。
あの時代、5人の子供を育てるのは本当に大変だっただろう。
私は東村平良でs24に生まれた、その時両親は30歳だったと聞いたことがある。
大正8年生まれだからそうだろう。
小学校1年の夏休みを終えたとき、名護に住まいを変えた。
小学校2年の頃か、名護十字路のすぐ近くに小さな土地を借り、食堂をするために家を建てた。その頃は貧乏だとは思わなかった。
しかし、すぐ近くに住んでいて紳士服の店を開いていた若い夫婦の連帯保証人になった。その夫婦が夜逃げした後に不幸が我が家にやってきた。
赤紙を持った数人の男の人が家に来たことは今でも鮮明に覚えている。
何の価値もないような黒いタンスに赤紙を張り付けたことを。
水道も電気もない生活がしばらく続いた。
最悪の生活でも、母親は諦めなかった。
天ぷら屋を始めた。
私達兄弟も朝早く起きて、天ぷらを配達後、学校に行った。
学校から帰ってきて、翌日の仕込みを夜11頃まで。
苦労とは思わなかった。
好きな歌を大きな声で歌いながら夜の仕込みを続けた。
サンマを開くとき右手の親指をサンマに入れて開くのだが、作業が終わるころには親指かの皮膚から血が出ていることもあった。
沖縄でも冬は寒い。
冷凍のサンマを水につけ、解凍したサンマの開きを作るのは本当に大変だった。
小学校の3年ごろから高校を卒業するまでその作業は続いた。
今、私は本当に幸せな生活を送らせていただいている。
両親と6歳離れた兄貴のおかげだと思っている。
兄貴は私が中学を卒業した時、高校に行かせてくれた。
両親は貧乏だから、高校は行かずに仕事をしてほしかったと私は思っている。
その時、働いていた兄貴は自分が援助するから、私を高校に行かせてくれと言った。
そのおかげで私は名護高校を卒業し、大阪での近畿大学の理工学部の夜間も卒業することができた。
今でも兄貴には頭が上がらない。
兄貴が事業を失敗し借金を背負ったとき、自分はできるだけのことをしたいと思った。
40年近く前になるだろうか、私が自宅を購入した数年後だと思う。
少ない貯金が無くなるどの金額を兄に送った。
送ることを了解してくれた妻に本当に感謝している。
人生とは
今の自分が本当に幸せになるために
私の人生の節目、節目で
いろいろなことが起きていたのだと
いま、本当につくづく思う。
すべてに、感謝。
コメント
子供の頃は 今の様に世の中が豊かではありませんでしたので両親が一生懸命に働く姿が目に浮かびます。ある時学校で
木琴を持っていかなければならなくなりましたが 買ってくれませんでしたので 諦めましたがその日に母が学校に
届けてくれました。どうにか工面してくれたのでしょう。その時は解りませんでしたが親になって 母の気持ちが理解できました。
fukuaguriさんのお気持ち良く解ります。
お兄様、立派な方ですね。その恩を忘れないfukuaguriさんも 偉いと思いました。真摯に生きてこられたのが伝わり感動致しました。
良き伴侶にも恵まれられてお幸せですね。
これからも畑仕事 楽しんで下さい。