故郷沖縄に帰る・・・世冨慶から実家まで歩く




名護世冨慶のバス停に3時過ぎに着いた。

バス停前のトイレを借り、島酒のカップ酒を買った。

海を見ながら飲む酒の効くこと。

やっと名護に着いた。
我が青春の故郷に。
そのことに感動しながらちびちびと飲んだ。







バス停の裏にある山。

私が小学校4年だったころだと思う、飼っていた子犬が死んだ。

私はおおよそ4カ月目に死んだ子犬をダンボールに入れた。

荷物用の自転車の荷台に積みこの山に埋葬した。

今でも鮮明に記憶がある。
白い山百合がいっぱい咲いていた。
夏だったんだ。
小さなスコップで穴を掘って埋めた。
百合の花が風で揺れているのを見ながら思った。

もう二度と犬を飼うまいと。

世冨慶から実家まで歩いた。




東江のフクギ並木。









小学校4年生ごろから高校を卒業するまで
家業の手伝いをした。
天ぷらと魚のフライを自転車に積みお店に卸す。
学校に行く前の時間に世冨慶から宮里までの取引のある商店に配達するのだ。
小さい頃、このフクギ並木のある道を自転車で通った時
道に迷ったことがある。
狭い小さな道が幾重にも交差して、小さな私にとっては迷路だった。
大人になり過ぎた今では迷うことは無かった。
私が配達していた店はコンクリート造りに新築し健在だった。




キタボール。
大学時代に帰ってきたときボーリングをした。
180点を超えた記憶がある。
あれから40年頑張っているボーリング場を再び見れて幸せを感じた。





ボーリング場前にある教会。

小学校3年の時、よく通っていた。
『モーロビトコゾリテシュハキマセリー』と歌っていた。


なんで行くのを止めたのか。
今考えると、いつも回される寄進袋に何も入れることが出来ないのがつらくなったからだろうと思う。





教会を過ぎるとガジュマル緑地に出る。

ここには二つの大きなガジュマルがある。

その一つがピンプンガジュマル。
名護人(ナゴンチュ)には忘れる事が出来ない。名護に来た時にはまずピンプンガジュマルを見て他を見る。












遠景を撮りたくて戻った。

















40年前の賑やかな商店街はもう無かった。

寒い冬に、熱い風呂に入った銭湯ももう無かった。











名護十字路。

ピンプンガジュマルの次は絶対ここを見る。

ここからほんの数分の所に我が実家はあった。

高校を卒業する間近までこの付近で生活していた。

全てが懐かしい。










この路地を少し行くと私の青春の地だった。










小学校3年から6年ぐらいまで遊んだブロック工場。

今は市営住宅を作っている最中だった。










この駐車場にブロック工場のブロックが積まれていた。

せっかく会社の方が綺麗に積んでいるのを
私ら悪がきが遊び場にしてしまった。


ブロックを積み直し、トンネルを作り、首には風呂敷をまき月光仮面だ!
怪傑ハリマオだと遊んでいた。

ブロック工場の高い大きな屋根下に上り、雀の巣をさがした記憶も鮮明にある。
その時一緒に遊んだ悪がき仲間には3年前沖縄に帰った時にあった。
私が帰っていることを聞き一席設けてくれたんだ。
お礼の一筆もなく今にいたっている。誠に申し訳ない。


ブロック工場の前が私の実家のあったところだ。
そこから今のところに移ってからもう40年以上もなるのに、この地を見るたびに涙が流れて仕方がない。
今回も写真を撮りながら泣きじゃくっていた。
車の右のこの小さな狭い空間が私の青春の地だ。

小学校3年から17歳までの思い出の地だ。




ご迷惑をかけた小さな川。

今は清水になり小さな魚がいっぱい泳いでいた。









マラソン大会があるたびに心臓破りの坂と言われた坂も
今見るとそんなにきつくなかった。





坂道を登りきると右にはいつも訪問している名護ホンダさんがあった。

マサマサさんはここでいつも頑張っているのだ。






この坂道を下ると私の実家があります。

世冨慶でバスを降りてから2時間近くが経ってました。










最後まで読んでいただきありがとうございます。



次回は『沖縄の墓の建立祝い』と題し投稿したいと思ってます。



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