沖縄東村平良その4:ここで育った・・おばさまに育てられた



家族が見ている
フジテレビの不毛地帯を聞きながら
ブログを投稿だ。


画像の中心におばさんの家が建っていた。

ここは東村平良のはずれで、この先宇出那覇まで家がない。









大宜味村まで13キロとある。看板が曲がり角の近くに立っていた。

この地に建っていたおばさんの家で私は小学校に通った。

理由は分からないが、私一人おばさんの家に預けられた。

おばさんの家には4人の子供がいてた。

歳が私とかなり離れていて遊んだ記憶は少ない。

しかし次男坊とは歳があまり離れていなく、居候の身でよくケンカもした。
今考えればたわいもないことだ。
一つ布団で寝ていて、次男坊さんが海老寝をして私を布団から出したので、私も海老寝をして布団の取り合いをしたのだ。

おばさんがそれに気付いて、次男坊さんを叱った記憶が鮮明にある。

御免なさい。
居候の身でわがままなことをして。





おばさまの家から十数メートル歩くと海の見えるこの道に至る。

もちろん50数年前はこんな広くアスファルトの道ではなかった。
右の山が迫っていて今下り坂になっているが上りの坂道がありそれからしばらくして下り坂になっていたと記憶している。
通る人が少ないのか、雨露のぬめりが豚のミミガーみたいになって草の間に散らばっていた。
今でも、その光景を夢に見ることがあって、豚の飼料になるのではと夢の中で思っていたことがある。

おばさまの家は当時豆腐を作っていて
よく、朝早く海水を汲みに天秤棒を担いでおばさまと一緒に海まで行った。


大きな釜で豆をすりつぶしたのを煮て、その中に先程汲んできた海水を入れると、すぐにカタマリが出来てくるのが面白かった。

そのカタマリをひしゃくで汲み上げ、布を敷き詰めた四角い細長い箱型の器に入れ板のふたをかぶせ重しをのせた。

水が下から出て、豆腐は固まった。

その固まった豆腐を浮き上がった筋に沿って包丁で切り水の中に入れた。

出来上がった豆腐は売りに行くのではなく、平良の村の方が買いにきてくれたと記憶している。

おばさまは本当に私に優しかった。

ふくー、ふくーとよく話しかけてくれ、仕事を手伝わせてくれた。

そしておばさまは本当に強かった。

ある夜、トイレに行くとハブがとぐろを巻いていた。
おばさまは怖がりもせず棒きれでハブを追い払った。

お婆様もこの家にはいて、優しくしてくれた。

今思うとぞっとするが・・・
近くにたくさんいたアフリカマイマイ(大きなカタツムリ)の殻を石で潰し、ぬめりを取り、油でいためて食べさせてくれた。
≪食料にするため外国から持ってきたらしい。危険な寄生虫があり今では食することはない。害虫で駆除対象になっている。≫
美味かった記憶があるが、大きくなって寄生虫があり危険だということを知った後はよくぞ寄生されずよかったという気持が強くなった。

おばさまは実弟が亡くなるちょっと前にこの世を去った。
お葬式に行けず本当に心残りだ。




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追記

今日遅く仕事から帰ってきてメールを見ると

沖縄東村立山と水の生活博物館の担当者様からコメントがあった。
≪公開はしてませんが≫

マレツキーさんが撮られた私の子供時代の写真を現像し送ってくれるそうです。

うれしい。

早速明日電話しお願いしようと思う。

担当者様ありがとうございます。

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