故郷沖縄名護市。
私は名護市に小学校1年の夏休みに山原(ヤンバル)東村平良からやってきた。
高校を卒業した春、私はオリオンビール名護工場でアルバイトをした。
自宅から走って10分ぐらいのところにあるオリオンビール名護工場。
朝8時から午後5時までだったと記憶している。
いつもぎりぎりで家を出て、オリオンビール名護工場まで畑や草地の丘をマラソンで通っていた。
今年8月末に名護に帰った時には、その畑、丘には住宅が立ち並び、私が走った山道はどこにもなかった。
オリオンビール名護工場はその年の9月まで働いた。
何の不満も無く仕事は楽しかった。
一緒に働いているおばさまたちに本当に親切にしていただいた。
9月末に、当時大阪で働いていた兄に誘われ大阪堺市に行くことになった。
オリオンビール名護工場の皆様に盛大に送別会を開いていただいた。
こんな高校を卒業したばっかりで半年も働いていないアルバイトの私のために。
多くの餞別も頂いた。
名護に帰る度にオリオンビール名護工場に立ち寄ることにしている。
中に入ることは出来ないが。
門前に立ち工場を見ていると働いていた時のことを走馬灯のように思い出す。
勝手に無免許で4トンのトラックを運転し、レールにバンバーをこすってしまって申し訳ない。
管理している運転手さんに誤ると、次からは黙って運転しないでくれと笑って言ってくれ、ヘッコンダバンーパーに土をつけ隠してくれた。
本当に御免なさい。
もう一つも車の話だが、ホークリフトを運転しビール瓶のかけらを後ろのタイヤで踏みパンクさせたこと。
ごめんなさい。
昼休み口笛ばっかり吹いて、うるさくして御免なさい。
年下の若い子が、『口笛うまいね』と言ったがそれが皮肉で
うるさいのでやめてほしいんだがという意味を理解できたのは3年後だった。
本当にごめんなさい。
たまに、従業員食堂で昼食を食べることがあった。
生まれて以来食べたことがなかった≪レタス≫を初めて食べた。
おいしかった。
戦後二十数年たっても野菜作りは人糞の肥料を使うことが多かったと思う。
しかし、オリオンビール名護工場の従業員食堂は特別に契約し人糞の肥料を使わず洗わなくても野菜が食べられるのを出しているともっぱらの噂だった。
≪後で聞いたが本当だった。≫
もちろん私もこの噂話は耳に入っていた。
笑ってしまうが
当時私は潔癖症だった。
今から考えるととてつもなく安い時給の中から、たまに従業員食堂で食べる≪レタスのサラダ≫が最高の贅沢だった。
一枚の写真から
たくさんの思い出が次々とよみがえってくる。
本当に写真というのはいいものだ。
たまに、オリオンビール名護工場の皆様と送別会で一緒に撮った写真を見ることがある。
感謝の思いで胸がいっぱいになる。
多数の方のお世話になり今の私がある。
本当にありがとうございます。
いつも最後まで読んでいただきありがとうございます。
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