ナーベラを見ていると思い出す・・清兵衛と瓢箪



畑で・・

夏野菜の棚の下で

水筒の冷たい水を

飲みながら

棚から垂れ下がる

ナーベラやカボチャを見るとよく思い出すことがある。



中学2年の頃だったと思う。


国語の授業で出会った『清兵衛と瓢箪』だ。


一昨年前、近くの方が庭で瓢箪を植えていた。

仕事に行くときにこの家の前を通り棚からぶら下がる瓢箪を見る度に

何か懐かしさを感じた。


コンテナに座り水を飲みながら畑の棚下で連なるナーベラを見ていると

突然名護中学2年の頃の国語の授業のクラスの情景が思い出された。

志賀直哉著『清兵衛と瓢箪』の授業だった。

そうか、垂れ下がる瓢箪を見て懐かしさを感じたのは

このことだったんだ。


子供は自分の好きなことに夢中になる。

親は子供にこうなってほしいと思う思いから

これはおかしいと子供の好きなことを否定し取り上げる。

清兵衛は瓢箪に夢中になりこれを磨き続ける。

屋台に売られていた他の人から見ると何でもない瓢箪に魅せられ

これを磨き続けた。

親の叱責をうけこの瓢箪を手元から離し瓢箪にかかわることを終わった。

しかしこの瓢箪が今現代の価格で数百万円で売られたことを知らない。


その後清兵衛は絵に夢中になるが・・

それさえも親の気に食わないことになる。


そんな話だったと記憶している。

当時の国語の先生が私に何度も質問してきたのでこの話はよく覚えている。

しかし、私はその物語の本質も知らなかったのに

先生に偉そうに自説をのたまわっていた。

今思い出しても恥ずかしい。


中学2年の私に志賀直哉先生の『清兵衛と瓢箪』の奥の深い話の趣旨など

理解できなかったのにもかかわらず

たぶん、的外れなことを話していたのだろう。


だから、

恥ずかしさが 有り 50年近くも経った今でも思い出すのだろう。


人生て本当に不思議なものですね。


嬉しいことは思い出すことは少ないのに

恥ずかしいことはいつまでも覚えていて、

突然脳裏に現れてくる。



火事場のフラッシュオーバー見たいに。


たまには嬉しいことを思い出しながらニヤッとしたいものだね。




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