読書:夏目漱石 「それから」を読んでいる


今日から、カシオの電子辞書内蔵の「それから」を読み始めた。

夏目漱石の前期三部作の一つ。

前期三部作とは

三四郎  1908年 明治41年

それから 1909年 明治42年

門     1910年 明治43年


三四郎は「こころ」を読んだ一つ前の11月25日に読み終えた。

三四郎はまだまだ明るかった。

「こころ」は亡くなる2年前の作品で1914年大正3年の作品。大分暗かった。


「それから」は前期の作品なので、まだ明るい作風だろうと思う。どうも暗いのは嫌だ。

読み始めて思った。

やっぱり、脛かじりのボンボンが主人公だ。

親や兄の脛をかじり、一戸建ての家をあてがわれ、仕事もせずに、ばあやや書生(角野)までいている。それなのに、稼ぎが無いのものだから、金がいる時は親父や兄嫁に無心をして生きている。

平岡と言う幼馴染で学生時代も付き合いがあった人物が関西地方から帰ってきて物語は本格的に始まる。

全体の五分の一ほど読み終えた。

その読み終えた最後の方で「代助」が「平岡」と話をしている部分が印象に残った。

今の働かない高学歴の若者に通じるものが、100年前の小説にもあったと思ったから。

「何故 働かない」
「何故働かいなつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟にいふと、日本対西洋の関係が駄目だから、働かないのだ。第一、日本程借金を拵へて、貧乏震ひをしている国はありやしない。此借金が君、何時になったら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、そら許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。さうして、無理にも一等国の仲間入りをしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行きを削って、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじ張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其の影響はみんな我々個人の上に反射しているから身給へ。斯う西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になつちまふ。話しをして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲弊しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつている。

あまりに話が長いので・・以下略。

つまり、「代助」は自分が働かないことを、この世の中、日本社会が悪いからと言いたいらしい。


どこかでこの言葉を聞いたこと様な気がした。

昔は良かった。

働こうと思ったら、すぐに働けたと。

今は駄目だ。

一流大学を出て、数十カ所の企業の面接を受けたが、ことごとく断られた。

自分の目標を下げて、就職して見たが、プライドが許さないと言って、上司同僚と喧嘩をして辞めた。

派遣や契約社員しかない。

その派遣ももともとやる気が無い、日本が悪い、今の時代が悪い、自分だけ差別されていると、不幸な自分が今あるのは、「代助」のように、他の世界に求めていては、仕事にもあり付けないのは当然の帰結だと、私は思う。

仕事をさせていただいて良かったと言う、感謝の気持ちがほんの少しでもあれば、生き方、考え方、行動も違ってくるだろうが。



小説の先を読むのが楽しくなってきた。



電子辞書に内蔵の小説は本と違う所がいいと思うようになってきた。

本なら、最後はどうなると、ページをめくれば分かる。

しかし、電子辞書に内蔵の場合はいちいちページをめくるのには次のマークを押さないとページはかわらない。

面倒だから、急いで先を読み進める。

最後の結末を見たい読みたい為に。

これがいい。


 

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